今回は、旦那が劇団ひとりさんで、祖父が元日本ハムファイターズ大沢啓二監督の大沢あかねさんが10月10日のさんま御殿に出演するというので調べて見ました。
そのような環境にいる「大沢あかねさんとは何者なの?」と調べてみますと、
実は幼児・
大沢あかねさんを知る上で、
・幼児期〜
そこで今回、
・父の顔を知らない幼児期の大沢あかねさん
・破天荒な母親とのあかねさんの苦労話
・9歳から始まった母親とあかねさんの芸能活動での悩み
父の顔を知らない幼児期の大沢あかねさん
あかねさんの父親は、幼児期である2歳前後の時、銭湯に行ったっきり帰って来なかったそうです。
1~2歳ぐらいの大沢あかねさん
引用:https://hirto.net/
そこで調べてみますと、あかねさんの記憶についてニ説ありました。
一つには、1歳の時に出て行ったので、写真も残っていなく全く記憶がないという説。
もう一つは、2歳頃に当時住んでいた公営団地の狭い風呂場で、両親が大喧嘩をしていた姿があかねさんの記憶にあるという説がありました。
どちらが正解かは分かりませんが、「幼児期は、何歳ぐらいから記憶があるものなのか?」と疑問に思いました。
そこで調べてみましたら、『幼児期の記憶』について次のようなことがわかりました。
上記の研究結果から、あかねさんの父親への記憶について考えてみると1歳の頃の記憶は元々持てないとされています。
なので、記憶をさかのぼれる2歳の頃の記憶の方が信憑性があるのではないかと思いました。
そこで「自分の記憶についてもたどってみよう」と考えてみますと、4歳前後の記憶は辛うじてうっすらと思い出せる気がしました。
又、4歳前後と思っている自分の記憶も、本当にその時期かと言われると自信はありません。
ですので、あかねさんの2歳の頃の両親の喧嘩の記憶については2〜4歳ぐらいまでと幅を保たせて捉えておくのが良いと思いました。
破天荒な母親とのあかねさんの苦労話
あかねさんのお母さんは破天荒で自由人だったから大変だったようです。
・お母さんは、家事をほとんどしないので、掃除やご飯の用意はあかねさんがやっていた
・生きて行くために手っ取り早いのは水商売という理由で、あかねさんも一緒にホステスの仕事場についていった
・幼少期の頃、東京のオーディションに行ったとき、2人でラブホテル泊まった
・家事は母親としての姿を見せる自分の仕事として進んでやる
・水商売の仕事場は、子供の教育上よくないと思い、連れていかなくて済むアイディアを考える
・泊まるホテルも、ラブホテル以外を選択する
というような、あかねさんのお母さんとは、全く逆の選択をするところだと思うんです。
・小さい頃はお母さんが働くスナックで鍛えられた。
・二人でラブホテルに泊まったことは貴重な体験。
・破天荒すぎて、尊敬ではなく脱帽。
参考元:https://news.mynavi.jp/
以上のような大沢あかねさんの捉え方から、『塞翁が馬』(さいおうがうま)という中国の故事成語を思い出しました。
「人生の幸・不幸は予測しがたく、幸運も喜びに足らず、不幸もまた悲しみにあたらない」
引用:https://kotobank.jp/
例えば、今見てきたようなあかねさんの半生がそのまま当てはまるのではないでしょうか。
確かに、一般的なものさしで見れば、幼少期は不幸だったかもしれません。
でも、当時を振り返ったあかねさんの捉え方を拝見すれば、不幸だと思っていたことが、現在の幸せにつながっていると思います。
そういう意味で、あかねさんの半生に学ぶべきことが凝縮されていると感じます。
9歳から始まった母親とあかねさんの芸能活動での悩み
大沢あかねさんは9歳から芸能活動を始めたとのことで、2000年代ティーンエイジャーのカリスマ的モデルの存在でした。
ローティーン向け女性誌「ピチレモン」当時(16歳~19歳)
このように、雑誌の一面を大きく飾っている表紙の写真を見ると躍動さが伝わってきて、当時のあかねさんのカリスマぶりが想像できます。
しかし、世の中の人からみれば、何の不自由もなく活躍していたんだろうと思うはずです。
大阪に住むあかねさんは、撮影がある度に東京まで新幹線で通っていたそうです。
当然、移動する毎に往復の交通費はかかる。
撮影の収入はあるものの交通費がかさみ、そこにかかる経費が収入を大幅に超えてしまう。
つまり、撮影の仕事が増えるのは嬉しい反面、仕事量が増すほどにお金が減っていくという悪循環になってしまっていたのでした。
色々工夫してみるものの節約にも限界はありました。
そこで、親子でよくよく考えた結果、東京に移り住むことにしたのでした。
大沢あかねさんが『踊る!さんま御殿!!』に出演
大沢あかねさんは何者なのかのまとめ
ここまで、大沢あかねさんは何者なのか?をテーマに見てきました。
では、「大沢あかねさんとは?」とまとめますと、ティーンエイジャーカリスマモデルからは想像できないが、とても前向きな苦労人だったと言えると思います。
・大沢あかねさんの父親の失踪
・大沢あかねさんの破天荒な母親
・母親との苦労が表情に出ないあかねさん
以上の3つに分けて、あかねさんの幼少期のことを詳しく調べていくうちに、段々と感情移入していくようでした。
もし自分があかねさんの立場だったら、ここまで強く生きてこれたかどうか…と自分を疑ってしまいます。
カリスマモデルとしての活躍に至るには、良くも悪くも全てが必要な要因だったのか?と思うと、なんか切ない気持ちでもあります。
そして破天荒だったとおっしゃるお母さんさんついて、このようなあかねさんの一言があります。
母には愛があったので、本当にぶれることなく私も育ってきたつもりなんですね。なんか、その環境が楽しかった
2009年『母ひとり、娘ひとり』出版当時(24~25歳)
出典引用: https://books.rakuten.co.jp/
と、当時を振り返っていらっしゃいます。
「その環境が楽しかった」とその言葉と写真の表情を拝見し、幼少期の苦労話を知った者としては大変救われる気持ちです。
最後に、ここ最近思わずメモってしまった一言があります。
『楽と楽しいは違うんだよ』と、シンクロナイズドスイミングでお馴染みの小谷実可子さんが、『奇跡のレッスン』という番組内でおっしゃった言葉です。
大沢あかねさんの「その環境が楽しかった」という言葉と、とてもリンクすると思ったのでご紹介しました。
なにはともあれ、「大沢あかねさんこれからも頑張ってください!」という気持ちでいっぱいです。
ここまでお読み頂き、ありがとうございました。
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